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第4話

Author: 狐狸
last update Last Updated: 2025-06-04 13:55:30

王宮長官グレゴリーは、彫像のように冷たく整った顔を不快感に歪め、汚物でも見下ろすかのような侮蔑の眼差しをアイリスに突き刺していた。

全身から放たれる威圧感は、アイリスの存在そのものを否定するかのように、重くのしかかってくる。

しかし、その殺気にも似た視線に射抜かれながらも、アイリスの心は不思議なほど凪いでいた。

長年にわたる虐待と屈辱が、彼女から恐怖という感情すらも摩耗させてしまったのかもしれない。あるいは、それは絶望の果てにたどり着いた、ある種の諦観からくる静けさであったのか。

彼女はただ、いつものこと、とでもいうように、その視線を甘んじて受け止め、抑揚のない、平坦な声で静かに口を開いた。

「申し訳ございません、グレゴリー様」

その言葉と共に、アイリスは操り人形のように、反射的に深く頭を垂れた。

その動作は、彼女が発した声の平坦さとは裏腹に、どこか強張っており、長年かけて身体に刻み込まれた恐怖の記憶を物語っている。

「卑しき身分で、鼻歌などを口ずさみながら、漫然と職務に当たるなどとは、一体全体どういう心得違いだッ!」

グレゴリーは細い目をさらに吊り上げ、低い声で腹の底から絞り出すような怒気を込めて怒鳴りつけた。

その言葉の一つ一つが、見えぬ鞭となってアイリスの心を打つ。だが、彼女はただ、より一層深く頭を下げることで、その侮辱に耐えるしかなかった。

「……はい。申し訳、ございませんでした」

消え入りそうな声で繰り返された謝罪の言葉は、冷たい厨房の石の床に吸い込まれ、虚しく響いた。

アイリスの消え入りそうな謝罪を、グレゴリーは汚れた道端の石でも眺めるかのように冷ややかに一瞥し、フン、と鼻先で嘲笑を漏らす。

そして……その唇が、更なる冷酷な宣告を紡ぎ出す。

「今日の午後、国王陛下がお前をお呼びだ。くれぐれも、遅参するでないぞ」

その言葉は、冷たい刃のようにアイリスの胸を刺した。

──父が、私を……?

予期せぬ呼び出しに、彼女の血の気がさっと引くのを感じる。アイリスは知らず知らずのうちに、首にかけられた母の形見である小さなペンダントを、祈るように強く握りしめていた。

グレゴリーは、アイリスの動揺を愉しむかのように一瞬その場に留まった後、興味を失ったかのように音もなく踵を返し、足音も荒々しく厨房から去っていった。

「お母様……父が、わたくしをお呼びになるなんて……一体、何が起きたというのでしょう。また何か……何か、耐え難いことをおっしゃるおつもりなのでしょうか。もう……もう、わたくしには……耐えられそうに……」

独り残された厨房で、アイリスの唇から嗚咽にも似たか細い声が漏れる。その大きな美しい瞳には、堰を切ったように大粒の涙がみるみるうちに溢れ出し、白い頬を伝って流れ落ちた。

しかし次の瞬間、彼女は何かに弾かれたように、その涙を乱暴に手の甲で拭い去った。

「いいえ……泣いてなど、いけないわ。お母様が、きっと見てるから……。強く……強くならなきゃ……」

彼女の小さな決意に応えるかのように、開け放たれた窓の外から、小鳥たちの澄んださえずりが微かに響いてきた。

その無邪気な歌声は、不思議と優しく励ましてくれているかのように、アイリスの傷ついた心に染み渡るのだった。

「……」

アイリスは一度、深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。どんな過酷な運命がこの先に待ち受けていようとも、それに背を向けることは許されない。

彼女は、それに真正面から立ち向かう覚悟を、改めて胸に刻んだ。

再び冷たい水に手を浸し、アイリスは山と積まれた皿に向き直る。

しかし、その健気な決意の奥底では、拭い去ることのできない、底なしの絶望が黒い渦となって渦巻いていた。

──このまま、わたしの一生は、このように、光の見えぬ日々を繰り返し、終わっていくのだろうか。

そんな魂の叫びにも似た暗い予感を抱きながらも、アイリスはただ黙々と、目の前の仕事に没頭した。

それが、今の彼女に許された、あまりにもささやかで、そして唯一の生きる術であったのだから。

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