王宮長官グレゴリーは、彫像のように冷たく整った顔を不快感に歪め、汚物でも見下ろすかのような侮蔑の眼差しをアイリスに突き刺していた。
全身から放たれる威圧感は、アイリスの存在そのものを否定するかのように、重くのしかかってくる。しかし、その殺気にも似た視線に射抜かれながらも、アイリスの心は不思議なほど凪いでいた。
長年にわたる虐待と屈辱が、彼女から恐怖という感情すらも摩耗させてしまったのかもしれない。あるいは、それは絶望の果てにたどり着いた、ある種の諦観からくる静けさであったのか。 彼女はただ、いつものこと、とでもいうように、その視線を甘んじて受け止め、抑揚のない、平坦な声で静かに口を開いた。 「申し訳ございません、グレゴリー様」 その言葉と共に、アイリスは操り人形のように、反射的に深く頭を垂れた。 その動作は、彼女が発した声の平坦さとは裏腹に、どこか強張っており、長年かけて身体に刻み込まれた恐怖の記憶を物語っている。 「卑しき身分で、鼻歌などを口ずさみながら、漫然と職務に当たるなどとは、一体全体どういう心得違いだッ!」 グレゴリーは細い目をさらに吊り上げ、低い声で腹の底から絞り出すような怒気を込めて怒鳴りつけた。 その言葉の一つ一つが、見えぬ鞭となってアイリスの心を打つ。だが、彼女はただ、より一層深く頭を下げることで、その侮辱に耐えるしかなかった。 「……はい。申し訳、ございませんでした」 消え入りそうな声で繰り返された謝罪の言葉は、冷たい厨房の石の床に吸い込まれ、虚しく響いた。 アイリスの消え入りそうな謝罪を、グレゴリーは汚れた道端の石でも眺めるかのように冷ややかに一瞥し、フン、と鼻先で嘲笑を漏らす。 そして……その唇が、更なる冷酷な宣告を紡ぎ出す。 「今日の午後、国王陛下がお前をお呼びだ。くれぐれも、遅参するでないぞ」 その言葉は、冷たい刃のようにアイリスの胸を刺した。──父が、私を……?
予期せぬ呼び出しに、彼女の血の気がさっと引くのを感じる。アイリスは知らず知らずのうちに、首にかけられた母の形見である小さなペンダントを、祈るように強く握りしめていた。
グレゴリーは、アイリスの動揺を愉しむかのように一瞬その場に留まった後、興味を失ったかのように音もなく踵を返し、足音も荒々しく厨房から去っていった。 「お母様……父が、わたくしをお呼びになるなんて……一体、何が起きたというのでしょう。また何か……何か、耐え難いことをおっしゃるおつもりなのでしょうか。もう……もう、わたくしには……耐えられそうに……」 独り残された厨房で、アイリスの唇から嗚咽にも似たか細い声が漏れる。その大きな美しい瞳には、堰を切ったように大粒の涙がみるみるうちに溢れ出し、白い頬を伝って流れ落ちた。 しかし次の瞬間、彼女は何かに弾かれたように、その涙を乱暴に手の甲で拭い去った。 「いいえ……泣いてなど、いけないわ。お母様が、きっと見てるから……。強く……強くならなきゃ……」 彼女の小さな決意に応えるかのように、開け放たれた窓の外から、小鳥たちの澄んださえずりが微かに響いてきた。 その無邪気な歌声は、不思議と優しく励ましてくれているかのように、アイリスの傷ついた心に染み渡るのだった。 「……」 アイリスは一度、深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。どんな過酷な運命がこの先に待ち受けていようとも、それに背を向けることは許されない。 彼女は、それに真正面から立ち向かう覚悟を、改めて胸に刻んだ。再び冷たい水に手を浸し、アイリスは山と積まれた皿に向き直る。
しかし、その健気な決意の奥底では、拭い去ることのできない、底なしの絶望が黒い渦となって渦巻いていた。──このまま、わたしの一生は、このように、光の見えぬ日々を繰り返し、終わっていくのだろうか。
そんな魂の叫びにも似た暗い予感を抱きながらも、アイリスはただ黙々と、目の前の仕事に没頭した。
それが、今の彼女に許された、あまりにもささやかで、そして唯一の生きる術であったのだから。「姫様、わたくしどもから、決して離れませんよう」 ジェームズの丁寧な、しかし有無を言わせぬ響きを持った声にアイリスはこくりと頷いた。 彼女は、骸骨の執事と、幽霊の侍女に両脇を固められるようにして、この世ならざる王城の廊下を歩いていた。 これから王子に会うのだという緊張に、心臓は早鐘のように打ち、手のひらにはじっとりと冷や汗が滲む。 しかし、それと同時に彼女の大きな瞳は子供のような純粋な好奇心に満ち溢れ、周囲の幻想的な光景を一つも見逃すまいと貪るように見つめていた。 (すごいわ……こんなの、見たことない) 王城の廊下は、アイリスが知る、生者の国のそれとは、何もかもが異なっていた。 壁は、分厚い氷を磨き上げたかのような、青みがかった半透明の大理石で造られている。そして、その壁の奥深くでは、無数の青白い光の粒子が川の流れのように絶えず、緩やかに流れているのが見えた。 注意深く目を凝らせば、その光の流れは、時に複雑な紋様を形作り、また時には、見たこともない古代の文字のような形を描いては、また別の形へと、生きているかのように、刻一刻とその姿を変え続けているのだった。ふと、アイリスが天井を見上げると、そこは満天の星空をそのまま切り取ってきたかのように、無数の光の粒子がきらきらと瞬きながら漂っていた。 アイリスがその光景に気づいたのを察したかのように、光の粒子たち、淡雪のように、ふわりふわりと、彼女の頭上へと優しく舞い降りてくる。 「わぁ……」 思わず、感嘆の声が漏れた。 光の粒子の一つが、彼女の頬にそっと触れる。それはほんのりと温もりを持っていた。 「それは、『魂の粒子』と呼ばれるものでございます」 ジェームズがどこか誇らしげに説明を加えた。 「この冥府の国の、ありとあらゆる場所に満ちている、我らの世界の生命力そのもの、とでも言うべきものでございますな」 アイリスは、驚きに満ちた表情で、自らの周りを優雅に舞う光の粒子たちを見つめていた。
「姫様、お時間でございます。ご支度は整いましたでしょうか」 扉の向こうから、ジェームズの落ち着いた声が響いた。アイリスは最後にもう一度深く息を吸い込むと、意を決して重厚な扉へと向かって歩き出した。彼女の後ろを、リリーも音もなく、空中にふわりと浮かんだまま心配そうに付いてくる。ゆっくりと扉を開ける。そこには、背筋を完璧に伸ばしたジェームズが、恭しく控えていた。だが、新しいドレスを纏ったアイリスの姿をその眼窩に認めた瞬間、それまで完璧な執事としての動きを少しも崩さなかった彼の骸骨の身体が一瞬だけ、硬直した。やがて彼は、心の底から絞り出したかのような、い感嘆のため息と共に、言葉を紡いだ。「……素晴らしい。なんという……なんという、お美しい姫君でございましょうか」ジェームズは虚ろなはずの眼窩をうっとりと細め、詩を詠むかのように言葉を続けた。「永遠の夜が続くこの冥府の世界に初めて昇った一条の月光のようです。瞳に宿る深い悲しみの色さえもが、夜空を彩る星々の輝きとなりて、我ら死者の心を、こうも焦がすとは……。これほど美しい『生』の輝きを、わたくしは未だかつて見たことがございません」詩的で、そして熱烈な表現にアイリスはただ、きょとんとするしかなかった。(ええと……これは、もしかして……褒めて、くださっているの……?)生まれてこの方、そのような美しい言葉を投げかけられたことなど一度もないアイリスにはどう反応するのが正解なのか全く見当もつかない。とりあえず、何かお礼を言わなければ、と、彼女は恐る恐る口を開いた。「あ、ありがとうございます……?」しかし、アイリスのそのか細い声は再び始まったジェームズの賛美の奔流によって、あっさりと掻き消されてしまった。
リリーの、ひやりとしながらも優しい手助けを受けながら、アイリスは美しい冥府のドレスに袖を通した。 生地が肌に触れた瞬間、アイリスは不思議な感覚に包まれる。どこまでも柔らかく、そして滑らか。 しかし、同時に、確かな存在感と、そして着る者の身分を示すかのような、厳かな重みも感じられた。やがて、全ての着付けが終わり、リリーに促されるままに、アイリスは部屋に置かれた巨大な姿見の前へと、おずおずと歩みを進める。 そして、そこに映る自分の姿を見て、アイリスは、思わず、息を呑んだ。 「……っ」 そこに立っていたのは、もはや生者の国で虐げられていた陰鬱でみすぼらしい「藁かぶり姫」ではなかった。 深く吸い込まれるような夜空の色を纏い、瞳に星々の輝きにも似た、静かで強い光を宿す貴婦人の姿が、静かに映っている。 「まあ……姫様、本当によくお似合いでございます」 鏡に映るアイリスの姿に、リリーは、心からの感嘆といった様子で、うっとりとそう言った。 しかし、純粋な称賛の言葉も今のアイリスの心には素直に響いてはくれない。 (何故……?何故、わたしのような者に、こんなにも美しいものを……?) 彼女は鏡の中の、別人のような自分を見つめながら、拭い去ることのできない疑念に囚われていた。──わたしは、生贄なのだ。この国に捧げられる、ただの供物。だというのに、どうしてこんなにも丁重に美しく飾り立てられる必要があるのだろう。 もしかしたら、これもあの継母たちがしたことと同じ、悪趣味な戯れの一環なのだろうか。美しい服を着せ、希望を持たせたその先で、何かもっと残酷なことをするつもりなのでは……。 いや、そもそも、「生贄」とは、一体、何をされるというのだろう。 その恐ろしい問いに思い至った瞬間、アイリスの背筋を、再び、冷たいものが走り抜けていくのを感じた。 「あの……リリー」 鏡に映る、別人のような自分の姿。そして、すぐ隣で微笑む可愛らしくも謎めいた幽霊の侍女。 アイリスは、意を決すると、震える唇で、ずっと胸の内に渦巻いていた、最も根本的な問いを口にした。 「わたしは、これから、どうなるのでしょうか。生贄、とは……何を、されるのですか?そもそも、何故、王子様に呼ばれているのですか……?」 直接的な問いに、リリーはきょとん、と不思議
「リリーと申します。以後、姫様のお着替えをはじめ、身の回りのお手伝いをさせていただきます」リリーと名乗ったその少女は、こてん、と首を傾げるようにして、優雅にお辞儀をした。その動きには一切の重力が感じられず、水中で優美に舞う水の精のように、どこまでも滑らかだ。「……」アイリスは言葉を失っていた。先程までの恐怖は、いつの間にか純粋な驚きと畏敬の念に似た感動へと変わっていた。骸骨の執事に、幽霊の侍女。死者の国とは、なんと多様な住人たちに満ちているのだろう。リリーは、その半透明の身体をふわりと浮かせると、歩くのではなく空中を穏やかに泳ぐようにして、ワードローブの方へとすべるように移動していく。その非現実的な光景に、アイリスは再び目を見張った。だが、もう悲鳴を上げたりはしない。ここは、そういう世界なのだ。アイリスは、必死に驚きを表情に出すまいと努め、なんとか言葉を絞り出した。「よ、よろしくお願いします……リリー」アイリスが、ようやく絞り出したか細い声に、リリーは半透明の顔に、優しく穏やかな笑みを浮かべた。そして、巨大なワードローブの中から一着のドレスをそっと取り出す。「姫様、本日は、こちらのドレスをお召しになってくださいませ」リリーの声は、心地よくアイリスの耳に届いた。アイリスは、一度ぎゅっと目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をした。もう、怯えてばかりではいけない。意を決した彼女は、再び目を開くと、目の前の美しい幽霊の侍女に、まっすぐ向き直った。「お願い、します」アイリスが決意を固めたのを見て、リリーは優しく微笑むと半透明の手を差し出す。その指先が、アイリの肩にそっと触れた瞬間、ひやりと、しかし決して不快ではない、清らかな湧き水に触れたかのような、不思議な感覚があった。アイリスは一瞬だけ身を強張らせたが、リリーの動きはどこまでも優雅で、敬意に満ちていたため、次第にその身から力が抜けていく
「姫様、どうか、そのように『様』など付けてお呼びになりませんよう。わたくしめのことは、ただ、ジェームズと。そうお呼びいただければ、望外の喜びでございます」そう言って、目の前の骸骨は、どこか楽しげに、にこりと微笑んだ……ような気がした。もちろん、表情筋などないのだから、実際に笑ったわけではない。けれど、その佇まいや、眼窩の奥で揺れる青い光から、アイリスは確かに、柔らかな笑みを感じ取っていた。「……あ、ありがとう……ジェームズ」恐る恐る、そしてぎこちなく、彼の名を呼ぶ。正直なところ、長年他者のすべてを「様」付けで呼ぶのが当たり前だったアイリスにとって、その習慣をなくすのは、ひどく居心地が悪く戸惑うことだった。しかし同時に、胸の奥にじんわりと温かいものが広がっていくのも感じていた。骸骨ではあるけれど、こうして一人の人間として、丁寧に、そして敬意をもって接してもらえるのは、一体どれほど久しぶりのことだろう。その事実が、彼女の凍てついていた心を、ほんの少しだけ溶かしてくれるかのようだった。「姫様、お寛ぎのところ、まことに恐縮ではございますが、お着替えのお時間でございます。王子様が、姫様にお会いになるのを心待ちにされておりますので」ジェームズのその言葉に、アイリスははっと我に返った。そうだ、自分はこの国に「生贄」として、ここに連れてこられたのだ。忘れていた、その重い事実が、再びずしりと心にのしかかる。「……王子、様」その言葉を、自らの唇が紡いだ瞬間、アイリスの心臓が、とくん、と大きく高鳴った。──生贄。何をされるのか?殺される?いや、そもそも今の自分は生きている状態なのか……?そんなアイリスの内心を知ってか知らずか、ジェームズは静かに巨大なワードローブへと近づき、その重厚な扉をゆっくりと開く。その中に広がっていた
その声に応える間もなく重厚な扉は、内側へと静かに開かれた。入ってきた人物の足元が、アイリスの視界に入る。塵一つなく、鏡のように磨き上げられた黒い革靴。そこから視線を上へと滑らせれば、寸分の狂いもなく着こなされた、完璧な仕立ての黒い燕尾服。その立ち姿は、長年王侯貴族に仕えてきた、極めて有能な執事のものであることを雄弁に物語っていた。──だが。「……!?」その人物の首から上を見た瞬間、アイリスの目は驚愕にこれ以上なく大きく見開かれた。何故なら、その清潔で、折り目正しい燕尾服の襟元から伸びていたのは、生身の人間の首ではなく……。──白く、艶やかで、そして、ありのままの姿を晒した、一体の「骸骨」であったからだ。それは、最高級の象牙で造られた工芸品のように、美しく磨き上げられた頭蓋骨であった。普通なら、そこにあるはずの眼球はなく、ただ暗く、空虚な眼窩が二つ、アイリスの方を真っ直ぐに見つめている。しかし、その虚ろなはずの眼窩の奥深くには、あの幽騎兵たちと同じ、淡い青白い光が、まるで魂の在り処を示すかのように、静かに揺らめいていた。その骸骨は、片眼鏡まで律儀に装着しており、その佇まいは、恐ろしいというよりも、現実的。「ひっ……!」アイリスは喉まで出かかった悲鳴を、とっさに唇を強く噛むことでなんとか飲み込んだ。目の前のあまりにも非現実的な光景を、彼女の心は必死に拒絶しようとしていた。──どうして骨が繋がっているの?──なぜ、倒れずに立っていられるの?そんな、今の状況ではどうでもいいはずの、子供じみた疑問ばかりが、混乱した頭の中をぐるぐると駆け巡る。そしてようやく真実に行き着いた。ここは「死者の国」。ならば、目の前にいるこの存在は、当然、「死者」なのだ、と。そんなアイリスの内心の葛藤に気づいているのかいないのか、骸骨の執事は、少しも動じることなく、ただ優雅に、そして深く一礼